つきよのだんごむし

一応軽度の「双極性障害」でどうやらHSPでアイドルを心の糧に社会人やってるだんごむし

幽体離脱感覚

かわいそう、と思うべきなんだろうな。と、思うことがたくさんあるけれど、特段私に感情がないとか共感性がないとかそういうことではなく、むしろ負の感情のほうだったらありすぎるくらいに感情が渦巻いているたちの人間なので、だったらそれはなんなんだろうと考えてみれば「そう」思うのは仕事中が多いわけで、職場用の私、になっている時に湧きおこるそういった思考の流れは職場用の私、とそうでない時の私、の間のひずみが生み出しているものなのかもしれないという結論に現段階では落ち着いている。それってどういう位置から見た思考でしょうか?上から目線、とは違う、その、現実に起こっている事象に直面している自分、を背後から見ているような気持ちでそういうことを頭に浮かべている。幽体離脱感覚。虚ろな自分の目まで見えちゃうような気がしてる。

蝉とタスク

割れた蝉、潰れた蝉、バラバラになった蝉をよくお見かけする今日この頃。蝉は死ぬ前に自分の死後のことを考えたりするのだろうかと思ったけど蝉の脳がどういう種類のものかよくわからないし蝉に脳はあるのかな?死んだ後のことはどうでもいいと思うのは死を遠く感じているからだろうけど自分の周りの人たちが幸せに暮らせたらいいなあということをほんわりと思うくらいのリアリティです今の私にとって。時折色濃く感じる、感じている時しか感じられないそれを日常に反映するのは困難だなあと思う。

週末にどこへ出かけようか、と考えながら今日の「自分の時間」を過ごすことを時に時間の浪費だな!と思う。それは現実逃避、タスクからの逃走で、でもそれがあるから現実をやっていけるんだよ~と言いながらやっていくべき現実の部分は積もって積もって底が見えない。掻き分けてとっつきやすいものから消化しているつもりで実は散らかしているだけだったりして、振り向いたらそこここに終わりました、と印を押して投げ捨てたあれやこれやが転がっていたりして。

足音

ペタペタペタ、とズッズッ、の両方を兼ね備えたような足音を立てて私は歩く。足音がうるさい、と職場で注意されるまでまさか自分の足音が、とは思いもしなかった。小学校の卒業式の練習でも、足を引きずらないように言われたけれど、たまあにそういうことを思い出してはほんの一日気を付けるだけで、またいつもの歩き方に溶け戻っていくのだった。

 

猫背で肩を上げてキーボードを叩くのが家での基本姿勢だ。太腿を閉じて座るのはかなりの力をかけていないと保てない。電車でも寄りかかれるならば何かに寄りかかりたい。右足にほとんどの体重をかけて立って居る。思考の癖より体の癖の方が自分では気付きにくく、直しにくいものなのかもしれない。もしくは、気付いたところで積み重なったものは簡単には直らないさ、と諦めてしまうことの方が多いのか。自分の癖を「許容」するのか「矯正したいと思う」のか。自己愛と面倒くさがりの対立?何らかかわりのなさそうなそれらが実は対極をなしているのかも、なんつって。

湯、沸き麺、踊る真夜中

それほどしっかりとお腹がすいたわけではないけれど、小腹以上の容量を満たしたい、と思うのは大概23時から1時の間。我慢だ、と思う時は豆腐や茹で卵を、やっちまえ、と思う時はポテチやインスタントラーメンを食べる。どちらに振り切る勇気もない時に逃げる場所に待っていてくれるもの、私にとってのうどんとにゅうめん。カロリーも塩分も糖分もその他もろもろの何かも摂取するのに変わりはないというのに、うどん若しくはにゅうめんであれば許される気がする。やさしいからだ。うどんとにゅうめんは、やさしいのだ。子どもの頃から、風邪の時にはたまごうどんだったし、受験勉強の合間に食べたのはにゅうめんだった。なにか、彼女たちは夜中に食事をするという後ろめたい行為さえも包み込んでくれるような気がするのだ。私たちは消化がいいから大丈夫よ~って微笑みかけてくれるような気がするのだ。そんな存在に憧れるし結婚するならうどんかにゅうめんのような人がいいなって結婚願望が微塵もないくせに言ってみます。

飲酒催眠法

人とお酒を飲むのは楽しいなあ、と思った夜だった。

週末の夜テレビやDVDを見ながら度数3パーセントの缶チューハイをちびりちびり、2時間かかってふわふわと愉快な気分になるのが常、の私のアルコール事情なのだけれど、研修で長旅を共にしたメンバーと3か月ぶりに集まるということで大いに飲んだ夜だった。乾杯までは緊張してにこにこと相槌を打つことに徹していた私、一杯目を飲み切るころにはゲラゲラと笑いながらチャンスを見ては全員でのおしゃべりに言葉を挟もうとするおしゃべり大好き野郎に変身する。特別酔いやすいわけでもなく、この場合私に大切なのは「お酒を飲んでいる」という事実を認識することで自己催眠をかけ「酔っていて陽気な私」になるための条件を揃えることなのだ。そうするともう私のメンタルはとっても強くなるし、頭の中では繊細な空気の読み取り作業を行っているくせそんな自分を覆い隠すように行動と発言は大胆になる。その状態が、普段より自分を自分の好きなように演出することが許される状態がとても楽しい。いや、いや、いろんな方としゃべってふざけて手を叩いて笑うのが楽しいのだ。危ない、今はお酒を飲んでいないんだからそうやって空気を読みつつ空気を読まないふりをして自分を演出しようとしていることをバラしてはいけない、いけない。

未来計画

近所の家の呼び鈴が鳴る音を一回、二回、三回と数える夕方。今日は夕方に帰ってこられたのでとても気分がいい。一日中眠たくはあったけれど、眠気によって色々をしょうがない、と諦められたがために今日の私はとてもいいひとだった、と思われる。

2、3日のスケジュールをぎっちりと考えるのは得意だ。得意だというより、おでかけなどはぎっちりと予定を立て交通その他の情報もメモをしてから出かけないと不安でしょうがないためにぎっちりと考えるのだけれど。一方、長期計画、とか、未来の展望、とか、将来設計、とか、そういうものを考えるのはすごく苦手だ。苦手だし、自分にはその能力がないなあ、と気付いたのは小学校の夏休みのしおりの最初のページの夏休みのカレンダーに宿題計画を書きこむ、あの時だった確か。そんな先のこと考えられないよ!とお手上げだったし、なんとか書きこんでみた宿題計画がその通り全うされたことは覚えている限り一度もなかった。未来像が描けないタイプの脳なんだろうなあ、と判断したのは大学生の時。周りが就職活動やら結婚願望やらもりもりと悩み語り合う中で私は1年後の自分すら想像ができないなあ、と思っていたし1年後の自分を今の自分が縛るのは嫌だなあ、と思っていた。仕事に就くことは自分を縛ることだと漠然と思っていたから、どこかの会社に入る自分が想像できなくって、大学を卒業してから実家の洋菓子店を手伝ったりしてみたのだった。ふらふらと漂いながら一歩ずつで進む先を決め(たり決めなかったりし)ている私にとって、未来の想像はとても困難なことである。だから、何歳までに結婚して、何歳までに子供を産んで…というビジョンを描けている友人に感心したし、就職や結婚という道に踏み出す友人たちをすごいなあ、なんて傍目で眺めていた。ああ、しかし、第二次結婚ラッシュが訪れている今28の歳になってすら、来年の自分の想像ができないから、また一日ずつ咀嚼して生きていくしかないのだけれど。

野放しのイライラとスマイル地獄

イライラした働き方をしているな、という自覚はあるけれどイライラした働き方をやめられない時というのがある。幽体離脱したみたいに自分の姿を眺めてみても、止められないことがある。なぜだろうなあと考えたら、自己愛なのかなあという今日の「とりあえずの」結論。客観的に判断できる損得云々以上に、自分のイライラを野放しにすることで自分を尊重しているような気持ちになるのだ。それが例えば他人由来のイライラであれば、その人はきっとこういう状況でこういう気持ちだったんだろうな、というところまで想像もできるのに。自分のことがいちばんだから、「私の今のこのイライラを無視したら誰が報ってくれるの!!!」と思うのだ。そして、大抵の場合、感情と行動を切り離して「私のイライラ」を無視した方がのちのちには気持ちの良い結末が待っているのです。それでも。それでも!明日も私はきっと8割の確率でイライラを野放しにしてああだこうだ怒りを募らせるのだろうなあ。なんともなんとも。

 

全く関係ないけれど唐突に思い出したのは高校の文化祭の出し物、でやったバトンダンス、の練習の風景。フリフリのミニスカートにツインテールで踊るバトンダンスとだぼっとした服を身に付け踊るヒップホップをいっこにまとめてやるっていうあのアイデアは完全に当時あのクラスの「中心人物」たるギャルたちの統一感もセンスもないアレだったんだぜ、って十年経った今文句いってる。チーム分けの日学校を休んだ私は知らぬ間にフリフリミニスカート軍団に入れられ、「笑顔で踊れてる人から練習終われる」という拷問的処置の中必死で頬を引き攣らせながらそれでも中々呼ばれない自分の名前と次々に抜けていくクラスメイトの女の子たちにさらに頬は引き攣った思い出。思い出、というより苦い記憶。いつだってギャルは中心にいて、また、いなければならない存在だったから彼女たちにもそういう立場なりの辛さなんてものがあったのかもしれないと思うけれど自分たちの好き放題できる環境はそれを上回る居心地の良さだったろうね。生まれ変わったとて私には属せないであろう集団。