つきよのだんごむし

一応軽度の「双極性障害」でどうやらHSPでアイドルを心の糧に社会人やってるだんごむし

うつらうつらと

夢から覚めるとほんのり外が闇を抜け出す時間。体を起こし瞼をこすってようやく昨晩15分だけ、と体に毛布を巻き付けて床に転がったところまでを思い出す。おはよう、とも言い難くうつらうつらと風呂場へ向かい、青白い浴室で温かい湯を浴びる。そういう朝の浴室はまだ夢の続きのようで、瞼を下ろすと再びそっち側に転がってしまいそうになる。うつらうつらと、朝の夢を見る。

 

今でも初恋の人、が夢に出てくるのは、一体どういうことだろう。思い出してもいないのに。叶わなかった想いが叶っているのは、一体どういうことだろう。未練と呼べるものが残るほど、恋、まで届かなかった恋なのに。

優しくされたいとき、どうしようもなく寂しいとき、夢の中には誰かが…私の欲する誰か、が現れて、私を甘やかし、愛し、傍にいてくれる。充足されない気持ちは、眠る私が満たしてくれる。だから、目が覚めた世界で私は、「寂しい」なんて言わないで、「優しくされたい」なんて言わないで、私は平気なのです、という顔でまた社会や世間に溶け込んでいく。

 

さあ、そろそろ髪を乾かして、私を夢から覚まそう。

50円のコロッケ

50円のコロッケで幸せを感じられる、部類の人間、である。私は。逆に、一皿ウン千、ウン万の食べ物は金額に慄いてその微細な味の判別、ができない…と思う。お子様舌であるということもあるけれど、それこそこの感覚自体おそらく幼い頃から変わらないもので、この先も変わらないんだろうなあと思う。例えば私は「美味しいものを安く」食べること、「安いけど美味しいもの」に出会うことを嬉しいと感じるけれど、反対の人もいるだろうし、お金をかけること、を厭わないものといえば私においてはなんだろうと思うと、好きなアイドルのDVDやCDや雑誌を買うこと、ライブに赴くにあたってはチケット代のみならずグッズ代、交通費や宿泊費、食事代だとかなんだとか…もちろんそこでも好き放題使っているわけではないけれど、普段の食費や他の娯楽や衣服等々に比べれば随分自由にお金を注いでいる。そしてそれを苦と思わない。お金を向ける先には人の嗜好がまるきり現れるんだなあ、と、50円のコロッケをほくほくと齧りながら改めて思った日でした。美味い。

過不足ない言葉

言葉は、私の口から転がり出ると、どうしてあんなにも軽薄になるのだろうか。

伝えたいのはこうじゃない、もっと考えていることがあって、それにはたくさんの段階があったわけだからそれも全部説明しないと伝えたいこの結論だとか提案だとかそれには辿り着けない、説明させてくれ、こうじゃないんだ、これで終わりじゃないんだ。

頭の中でたくさんの言い訳を並べて、それでも伝えたいことを伝えることよりも「話が長ったらしくてよくわからないやつ」と思われることへの恐れの方が勝つ、だから、伝えられなかった、もしくは、伝えられなかったかもしれない、という不安と不満足は誰かと話をするたびに積もっていく。いずれにしても、会話の中では何かを諦めなければいけないのだ、というそれも諦め。私の中で一番、自分の考えや思いを丁寧に、細かく、満足いくまで伝えられる友人との楽しく充実したおしゃべり、の後でも、あの時はああ言ったけど考えてみれば私の考えはそうじゃなかった、なんて後悔は常について回るもので、だから、人に言葉で思いを伝える行為に100点を与えることは、この先にもできないのかもしれない。これも諦め。嗚呼、思う存分伝えたい。自らの思いの丈を、感じたものを、見た景色を、余すところなく、一グラムの不足もなく、伝えてみたい。そうしたら、そうしたら、その先にはなにがあるのだろう。

気象病

ひとの生活というものは絶えず波立つ海の上にあるようなものだな、とつくづく思ったこの一週間ほど、体調不良からなかなか食欲が戻らず火曜の夜にはついに眠れず水曜日ぐったりと休憩で寝ていたところへ地震、飛び起きた所為で頭痛で頭の左半分がぐわぐわと痛み、ぐったりと寝ていたところを同僚に見られていたがためにえらく心配されたことでさらに吐き気、だるさがプラスプラスされていき上の人の早退令により早退して病院に行ったらわかんないなあ疲れじゃない?と言われて処方された頭痛薬をその場で飲んで帰宅。たらふく眠って翌日もやんわりした頭痛を抱えながらでもぜんぜん働けましたですけどあれは一体なんだったんだというもやもやのままワイドショーの一コーナーで見かけた「気象病」に目を留める。台風などの気圧の急激な変化で体調不良を起こすんだと。こんな人は要注意!の項目がほぼほぼ当てはまったので私はこれだ、気象病なのだ、と結論づければなんだかスッキリ。メンタルとフィジカルが直結していることは随分前から自覚しております、そういう体質です。それで、まあ、でも、なんだかんだで大分と回復をしました。日曜には随分と久しぶりに姉とご飯に出かけました。一番盛り上がったのは子どもの頃熱中していた謎ゲームたちでした。今までの学校、職場、趣味の繋がりの上でも同じゲームで遊んでいた人に出会ったことのないニッチなゲームだけれど私たちはこんなに時間を費やしているのだろうと当時から思っていましたけれどだからこそ懐かしさはさらに倍。一緒に買い物なんかして回ったりして。体の疲れは積もっていた分がたくさんあったのだけれど心持ち的にはとてもいい一日になりました。というそんな風な一週間でした文章にするまでもないけれど吐いておこうという意気込みでこのブログはやっていこうと思っています。

ただただしあわせ

赤いものを目いっぱいに吸い込んだ生理用品はさほど吸わないで捨てられるそれとどちらが幸せなんだろう、という思考自体有用である、とは言い難いけれど有用でないもののほうが多くを占めている世界であり生活であるからそれはまあいいとする。幸せも損得勘定のひとつに含まれるんだろうか。どちらかといえば逆であってほしい。幸せの中の、損得勘定というジャンル。私とあの子とどちらが幸せなんだろう。人と比べても意味はないさ、と歌う歌、誰も周りを見ないで生きれば社会なんてもの成り立たないだろう。視界に見えるのはいつでも自分でない他人で、鏡に映る自分さえ自分だ、とは断言できないし。「幸せ」という概念に嵌めこんでしまわなければどれだけだって幸せは感じられる、し、感じたからといってどうこうする必要はないし。ただただそれは快い感覚であればそれでよいのだ。そんな決めつけもないない、必要ない。

素敵なお買い物

無理はできないけれど出歩くことはできるぞ、というだけ回復したので朝から素敵なお買い物に行ってきました。大規模なイベントのため入場も列に並んで待機です、そういえば、前回来た時にも並んだのだけれど、雨が降るよなんて言った天気予報はぎらぎらとした太陽から逃げ出して、日傘で遮って何とか立って居られる強い光線。ただ立って居るだけなのに、首に、背中に、汗が滴っていく。一番汗をかいたのはお尻でなんどもつう、と太腿に流れ落ちる感覚にこれは汗であっていますか、とひやりとした。こうもたらたらと汗が落ちるのはあの時と一緒、地元で初めて行った岩盤浴と一緒。石の上に横たわって少し目を閉じたうちに、汗がぷつり、ぷつりと沸いては流れ落ちていく。起き上がってみれば石の上にくっきりと濡れた人型が黒く在ったそんな記憶が呼び起こされる炎天下での待機でした。

30分ほど待って動き出した列に運ばれて会場に入る、憧れているあの人その人のいる場所を探して、挨拶をして、少し話をして、今日は震えないで話しかけることができて少し進歩が見られた私。もっとこう、周りの様子を敏感に察知しながらもスマートにおしゃべりができたらなあ、と思うけれどできないんだろうなあ、と諦めてしまっている。しかし満足の買い物をして、いったん会場を離れたら足ががくがくとしていて、人の少ないスペースに思わずへたりこんでしまった。呼吸は荒くなって、自分が体調不良であるという意識もかぶさっているからよけいにだけれど、後悔しないようにもう一度だけ会場をぐるりとしてから離れた。

帰りの電車で目を閉じて体力回復を図り、部屋に辿り着くとやっぱりちょっと無理したかな、というヘロヘロ加減。腹は減るけど相変わらず食欲はわかず、でも食べよう、といつものように食事を作って食べる。こうなる前には食べたくてたまらないから絶対に食べよう、と思っていたスナック菓子も食べてみるけど、なんだ、どうした、美味しいけど、食べたいと思えない。それでも胃に詰め込んで、夕飯も通常時と同じようなメニュー。テレビに映るおいしそうな料理、いつもならああああおいしそう、食べたいなあと指をくわえる食欲の権化が、食べたいと一向に思えなくって、やや、これは結構な症状だな、と気付くのだった。昨晩生理がやってきて、生理前に採血をしたのが原因かなあ、と思うけどどうかね。そんななるほど抜かねえか。病院に行った方がいい、との友からの助言、明日も食欲がわかなかったら行ってみます。ああ、でも、病院。ああ。怖いなあ。でも私には今日の素敵なお買い物で購入した素敵なものたちが待っているので、それをいろいろの勇気とやる気にしようと思います。さて。