つきよのだんごむし

一応軽度の「双極性障害」でどうやらHSPでアイドルを心の糧に社会人やってるだんごむし

バリバリ3本

趣味が多いね、楽しそうだね、と職場の同僚や友人にたびたび言われるけれど、なんかそんなポジティブ満開なものでもないことに気付きました。私は苛立ちや嫌悪のアンテナが敏感で、イライラの種を拾いやすい性分なもので、普段生活しているともうほんとうに、それはもうほんとうに、歩けばイライラが発症しちゃうような、出会うたくさんのものたちに苛立ちや嫌悪のラベルをペタペタと探しながら歩いているみたいな、日常なのです。以前から行きたかった場所へのおでかけの道中にも、無差別テロ的にイライラしながら私は不快感の塊だなあ、と思って、でも、目的の場所について、「好き」「すてき」「いいなあ」の気持ちを胸いっぱいに満たしたら、帰り道はもう、ノンストレスマンになっているのです。寄ろうと思っていたお団子やさんが閉まっていても、じゃあ他を探してみようかな、と思うことができて、その結果おいしいたい焼きに巡り会えてハッピーエンハッピー!と、そんな風な人間になるのです。

だから、「好き」に敏感なのは、「嫌い」に敏感だからなんだな、ということ、今日気づいたこと。こう書くとなんともネガティブな印象になりますけれど、嫌い、の力に打ち勝てるのは好き、なんだなあ、という世界の摂理、的なものを掴んだぜ!と書くとものすごくポジティブな人みたい。性格も考え方も、なかなか変えるのは難しいものだから、きっとこれからも好きと嫌いをそれぞれにたくさん拾って、無意識内で中性を保とうとしていくのが私の精神バランス術なんだろうなあ。

次の春

宝塚音楽学校の合格発表のニュースを見ていて目を引き寄せられるのは歓喜に湧く笑顔や涙ではなくて、張り出された数字を見つめ続ける女の子の感情が露にならない表情で、ほんのすこし眉頭に力が入っているような、そんなぐらいしか読み取れない。ああ、苦しいなあ、と思いながら、もしも、イフ、オア、私があの場にいたらどんな表情をするんだろうと想像してみたけれど、やっぱり私も感情を露にはしないんだろうなという結果です。合でも、不でも。

実際はどうだったんだったかな、と自らの受験生時代を思い返してみたところ、そういえば私は盛大なる「合格発表」の場に居合わせられた試しがなかったのでした。

大学受験の合格発表は、雪の積もった山道を1時間以上かけて歩いて、キャンパスに着いてからも彷徨い歩いて、ようやっと掲示板を見つけた頃には人もまばらで、僅かな受験生を一団体だけ集まっていた何らかのサークルのまた僅かな先輩方が囲んでおめでとう、とやっていた白く静かな合格発表でした。サッと数字を確認して、既にその大学に通っていた姉を呼び出して短く一緒にはにかみあって、またすぐ一人雪道を踏みしめて下っていったのでした。

高校受験の合格発表は、高校へまた1時間以上かけて歩いて向かっている途中の横断歩道を渡ろうとして車にはねられて、父が迎えに来てくれた車に乗って高校へ行って、掲示板の前にはやっぱり人もまばらで、というか受験生の母親らしき人がひとり掲示板を見つめていただけで、サッと数字を確認して、それから病院へ向かったのでした。軽症だったのでさほど痛みは無かったけれど、血が出ているのと、なにやらわからん悔しさ、こんな時に車にふっとばされてしまう自分というか、一応抱えていた不安のようなものに穴が開いて一気に放出されたのか、そう、やたら悔しくて泣いたのを覚えています。涙が出ることがさらに悔しかった。合格はしていたけれど。

そういうあれこれ、のためかなんなのか、盛大なる合格発表の場は、なんだか怖いなあという気持ちがありますという話。緊張と興奮と悲しみをぶつけあっているのだろうか、みんな。

合格して通い始めた高校で、次の春、教室のベランダから玄関前の合格発表の様子を覗き込んでみた。悲喜こもごも、があちこちで溢れていてやっぱり怖かった。怖くないのかな、みんな。

いちご

親が、

仕事の関係で日曜日にこっちに来て、その仕事の関係の、余ったいちご一パックを私にくれたので、持って帰って、一日三粒ずつ食べていたんだけれど、

もう一度日曜日が来る前にいちごにはところどころ、黴が生えてしまったのでその部分だけを毟って今すべて食べ終えたところです。

さっさと食べればいいものを。とは思えない。大事な人からもらったものほど、大事に大事に食べ過ぎて、たとえば心がとても疲れた日とか、頑張って頑張って泣きそうな日とか、そういう日の夜に食べよう、と思ってとっておいたり。大事な人からもらったものは、とにかくなくならないようになくならないようにするので、賞味期限がぎりぎりになることもしばしばです。食べることにも誠意を持ちたくなる。

黴が生えてさえ、大事にしたくなる。

お前はすでに死んでいた

奥歯の銀歯が詰め物ごとゴロリと取れて、大きな穴が開きました。歯医者には3年ぶりに行きました。診察をしてもらって、レントゲンを撮って、虫歯がたくさんあるので治療が必要です。までは想像していたのだけれど、上に二本親知らずが生えているので抜きましょう。この歯とこの歯は神経を抜いてありますね。驚きの爆弾が二発、どん、どんと。半分以上埋まっている歯があるなあ、と思ってはいたけれどまさかお前が巷で噂の親知らずという奴だったとは。あと神経抜いてあるって何。覚えがない。治療はしたけど神経を抜かれた覚えはない。私の知らない間に二本の歯がすでに死んでいた。もしくは私が話を聞いていなかったのか。時折ある、病院だとか歯医者さんだとか、先生、に対峙する場所に行くと心が浮足立って、聞こうと思っていたこともなかなか聞けないし帰り道でわんさか疑問が湧いてくる結果になる、軽い心の金縛り。

 

そうことで、歯医者通いが始まりまして。週に2回通う。麻酔を刺されて歯を削られてなんやかや。矯正の相談にも行くことになりました。麻酔を打つと本当に感覚がなくなるんだなあ、と数年ぶりに味わってもまた新鮮に不思議な感じがして、唇をぶにぶにと噛んだり舐めたりして帰る。唇をうまく閉じられないような気がして夕飯のカレーうどんが上手に食べられなかった。通っている歯医者には男の先生が一人と女医っぽい白衣の女の先生が一人と助手っぽい女の人たちがいて、治療をするのは男の先生。気だるげでいつも煙草のにおいがするけれど目を見て話してくれる。女医っぽい人は胸元バーンミニスカどーん眼鏡に巻き髪ざばーんという風でザ・女医を体現しているため目のやり場に困るけどこないだ直視してみたら案外顔面の施しは地味に抑えていて逆に、逆に驚いた。そんなもんだからまあ、個性的な感じがするけれど目を閉じて麻酔の効くのを待っている間にもそういった皆さんが頭の上で左のC7がうんたら、これは駄目だな、次回はここをやるよ、等々記号のような会話を投げ合っているので異世界に連れてこられた宇宙人のような心持ちです。

 

歯医者通い6回目、左上の親知らずを抜きました。麻酔を4回も打って体を騙します。こんなに頻繁に麻酔を打って大丈夫なものなのか。ともあれ麻酔が効いたら、すぐ抜きはじめ。麻酔を打ってるけど抜かれる、と思うと恐怖が痛みになるようで、自分の脳もあまり信用ができない。麻酔を打ってるけど麻酔の効いていない唇を思いっきり引っ張るのでそれが痛い。叫ぶほど痛んだらどうしようドキドキ、としていた数分のうちに私の一番奥の歯は引っこ抜かれていました。こんなに短時間なのか。こんなに力づくなのか。驚きがたくさんです。さてさて、これから私の口内に何が待ち受けているのか、こうご期待。できない、恐怖と不安だらけである。

うつらうつらと

夢から覚めるとほんのり外が闇を抜け出す時間。体を起こし瞼をこすってようやく昨晩15分だけ、と体に毛布を巻き付けて床に転がったところまでを思い出す。おはよう、とも言い難くうつらうつらと風呂場へ向かい、青白い浴室で温かい湯を浴びる。そういう朝の浴室はまだ夢の続きのようで、瞼を下ろすと再びそっち側に転がってしまいそうになる。うつらうつらと、朝の夢を見る。

 

今でも初恋の人、が夢に出てくるのは、一体どういうことだろう。思い出してもいないのに。叶わなかった想いが叶っているのは、一体どういうことだろう。未練と呼べるものが残るほど、恋、まで届かなかった恋なのに。

優しくされたいとき、どうしようもなく寂しいとき、夢の中には誰かが…私の欲する誰か、が現れて、私を甘やかし、愛し、傍にいてくれる。充足されない気持ちは、眠る私が満たしてくれる。だから、目が覚めた世界で私は、「寂しい」なんて言わないで、「優しくされたい」なんて言わないで、私は平気なのです、という顔でまた社会や世間に溶け込んでいく。

 

さあ、そろそろ髪を乾かして、私を夢から覚まそう。

50円のコロッケ

50円のコロッケで幸せを感じられる、部類の人間、である。私は。逆に、一皿ウン千、ウン万の食べ物は金額に慄いてその微細な味の判別、ができない…と思う。お子様舌であるということもあるけれど、それこそこの感覚自体おそらく幼い頃から変わらないもので、この先も変わらないんだろうなあと思う。例えば私は「美味しいものを安く」食べること、「安いけど美味しいもの」に出会うことを嬉しいと感じるけれど、反対の人もいるだろうし、お金をかけること、を厭わないものといえば私においてはなんだろうと思うと、好きなアイドルのDVDやCDや雑誌を買うこと、ライブに赴くにあたってはチケット代のみならずグッズ代、交通費や宿泊費、食事代だとかなんだとか…もちろんそこでも好き放題使っているわけではないけれど、普段の食費や他の娯楽や衣服等々に比べれば随分自由にお金を注いでいる。そしてそれを苦と思わない。お金を向ける先には人の嗜好がまるきり現れるんだなあ、と、50円のコロッケをほくほくと齧りながら改めて思った日でした。美味い。

都合のいい

しんどいときには人の幸せが苛立つほど大きく見えて、気分の良い時には人の苦しみがじめじめと浸食してくるように思える

私の性格の悪さなのか、人間の精神の防衛反応なのか

どっちにしろ自分にだけ都合のいい私